東日本大震災〜福島での被災経験を振り返ってみた

2023年2月24日

福島名産の赤べこ
あとで読む

こんにちは、福島県出身のライターnegiです。

私は普段の生活で「防災」なんて一切考えたこともなく、毎日を過ごしていました。

12年前のあの日。

2011年3月11日、東日本大震災発生。

気がついたら私は「被災者」になっていました。

今回は、防災とは無縁だった私の東日本大震災体験記を紹介します。

卒業式リハーサル中に「東日本大震災発生」

私は20代前半まで、生まれ育った福島で家族とマンションに住んでいました。

住んでいた場所は車社会の田舎でしたが、子どもが多く、学校もたくさんあり、そして買い物にも困らない暮らしやすい環境だったと思います。

当時学生で上京を控えていた私は、4月からの新生活が楽しみで、期待に胸を膨らませていました。

学生生活もいよいよ終盤、卒業式を目前にそれは起きたのです。

訓練ではない、本気の避難

地震による道路のヒビ割れ

2011年3月11日、学内の講堂で行われた卒業式リハーサル。

「早く終わらないかなあ…」と思っていた頃です。

学生たちの携帯電話からは、今まで聞いたこともなかった緊急地震速報が徐々に鳴りはじめ、

突然立っていられないほどの揺れが起きました。

聞き慣れない不穏な音が鳴り響き、一体何が起きているのか分からず放心状態。

その時、私が暮らしていた地域では震度6弱の地震が発生したようでした

必然的にリハーサルは中止。

外では雪がちらついていましたが、私たちはコートを着る暇もなく薄着のまま建物の外へ飛び出しました。

急遽向かった駐車場には 青ざめた大人たち や 泣き叫ぶ幼児たち が既に避難していて、この光景だけで私の不安は破裂しそうでした。

着の身着のままで避難をしたは良いものの、3月の福島はコートなしではいられない寒さ。

駐車場では、どのくらいの時間寒さ揺れに耐えていたかは分かりません。

「地震で帰宅困難となった人は学校に泊まる」「帰れる人は自力で帰る」ようにと学校より指示が出たのは、だいぶ経ってからだったように感じます。

震災直後15時頃の気温

  • 福島県… 5.3℃
  • 東京都… 10.4℃

 (引用元:気象庁|過去の気象データ(福島県) (東京都))

オススメしません!無謀な貴重品回収

学校と自宅が近かったので、私は家へ帰ることにしました。

「もしかしたらもう学校にも戻れないかもしれない」と思い、まずは荷物を取りに学内のロッカールームへ急ぎました。

ロッカールームでは一般女性よりも背の高いロッカーが斜めに倒れかけていて、もしまた揺れが来たら下敷きにもなりかねない状態。

この状況下で入室するか悩みましたが、頭の中は「貴重品を回収せねば…」という謎の使命感でいっぱいです。

揺れが来ないことを祈りつつドキドキしながら部屋に入り。

急ぎつつも慎重に行動し、無事に自分の荷物を回収することに成功しました。

編集部
編集部
気持ちは分かるけど、危なすぎるよ!(汗)

notice

大人になった今でも「どう考えても危ない状況だったよなあ」と反省しかありません。

危機的状況に遭遇した場合に、冷静に判断できる能力が必要でした。

こんな経験をしていても「危ないけど気をつければ大丈夫そう」「取れそうなところに貴重品がある」状況であれば、私は99%同じことを繰り返してしまうと思います。

貴重品を回収できない状況に陥った場合、どう対処すべきか考えておくことが必要です。

学校からの帰り道では、深夜でも道路工事中でもないのに信号機がチカチカと点滅状態。

地震の影響で信号機が機能しなくなっていたのか、こんなのは初めての経験で、いつもよりも周囲に警戒しながら家へ向かいました。

自宅マンションに着くと、外壁が倒れかけ、駐車場のアスファルトの一部にヒビが入り盛り上がっていることに気づきました。

幸い、マンションの建物・居住地は無事でした

夢か現か、はじめて尽くしの避難生活

考え込む女性

はじめての被災

未知の事ばかりで、これが現実なのかさえ分かりません。

生まれ育ち、慣れ親しんだ環境がガラリと変わり、なんだか寂しく複雑な心境でした。

突然何もかもが遮断されたように感じ、「これからどうなってしまうのか」「4月からの生活は?」などの不安で頭の中はカオス状態でした。

携帯電話が使えず、家族と連絡がとれない

震災後はキャリア回線が使えなくなり通話もメールも出来ず、そして家族とも一切連絡が取れません。

通信障害が起きていることを認識しつつも、私はメールの「送信ボタン」や「通話ボタン」を連打していました。

震災が起きるまで緊急時の集合場所など1ミリも考えたことがなく、家族と連絡が取れないことで自分が世界から孤立しているような感覚でした。

倒れた家具や崩れ落ちた本を呆然と眺めていると(時間にして30分も経っていなかったはず。)、玄関からガチャリと音が。

が急いで仕事から帰ってきて、自宅にて無事に再会することができました。

その瞬間、心から安心したことを今でも覚えています。

同時に、携帯電話が使えないことはこんなにも不便なのかと痛感しました

neginegi

あれから12年が経った今でも、当時関東に住んでいた兄は青ざめながら「連絡が取れず、本当に気が気でなかった…」と話しています。

自宅では被災中もWi-Fiが使えたので、Skype(ビデオ通話)を使って安全を伝えることで、お互いに気持ちを落ち着かせることができました。

蛇口をひねっても水が出ない

雫が落ちそうな蛇口

当時貯水槽方式のマンションに住んでいたので、震災と同時に水が使えなくなることはありませんでした

震災直後だけはガス・水道が使えたので、「お風呂沸かしてすぐにお風呂に入りなさい!」と母からの指示。

湯船に浸かり「ほっ…」としたのも束の間。

まもなくガス・水道が使えなくなり、その後は浴槽に張った水をバケツに汲みトイレを流す水として使用していました

何日続くか分からない避難生活が始まる直前に、お風呂に入ることができたのはラッキーでした。

しかし、普段と違う生活が始まるとすぐに、お風呂に入れない状況へストレスを感じるようになりました。

幸い、近所の親戚宅では全ライフラインが生きていたので、時々シャワーを借りられることに。

ただ余震が続く中でのシャワーは「裸のまま避難することになったらどうしよう」と緊張感しかなかったので、もう同じ状況が発生しないことを祈るばかりです。

point

防災の備えとして「汗ふきシート」の用意を促す記事を散見しますが、同時にドライシャンプーのような「洗髪用グッズ」の用意をオススメします。

入院等で洗髪できないことと、災害で洗髪ができないことは状況がちがいます。

2つの大きな違いは、非常時だと物理的にも水が使えなくなる状況が考えられること。

断水且つストレスフルな避難生活では、たった数日でもストレスそのものでした。

たかが髪くらい…と言わず水が使えない非常事態でも、頭も身体も清潔を保てる選択肢を残しておきたいです。

親戚宅は井戸水からの給水方式だったため、水道がでなくなるということはなかったようです。

そしてガスは、災害に強いLPガスでした。

同じ地区であっても、住居によって使えるライフラインに大きな差があるなんて驚きでした。

ちなみに実家の水道が復活したのは、震災から1週間くらい経ってからだったと思います。

蛇口をひねり、水が出てきたことに感動したのは、あの時が初めてでした。

neginegi

公共施設の区域には仮設トイレが設置されていました。

ただ、水を流せるものではなかったので、私には抵抗感しかありませんでした。

自宅が断水になり、私は「水が出ないのはうちだけなのでは?」と微かな希望を持っていましたが、自宅の水が使えないなら外もほぼ同じ状況。

母の言った通り、浴槽に水を貯めていて本当に良かったです。

スーパーで買い物ができない

我が家の場合、震災直前に食料を買いに行っていたので、避難生活中に食料に困ることはありませんでした。

「お菓子でもなんでも、食べれるときに食べておきなさい」と母に言われていたので、素直に言うことを聞き何かしら口に入れていました。

ちなみに、記憶に残っている避難生活での夕飯は、カセットコンロを使って食べたお鍋です。

また、実家では炊飯器ではなく日常的に圧力鍋でお米を炊いていたので、お米に困った記憶もありません。

しかし、食料はあるけどいつまで続くか分からない、この避難生活。

物流が止まり、営業困難となったスーパーの閉店状態が長く続きました。

食料はもちろん日用品さえも、買い足すということはできません。

避難が長引くに連れ「このまま食べていても大丈夫なのだろうか」と少しずつ不安を感じるようになりました。

neginegi

不安を感じるようになった理由は、いわゆる無人島系サバイバル映画をふと思い出してしまったから(汗)

それでも母の言うことを聞きお腹を満たすことで、体調を崩さず、空腹によるストレスも感じず、無事に避難生活を送ることができました。

気付けなかった「被災地の外の世界」

スマホを見ながら落ち込む女性

震災直後は地震の影響でしばらく交通ラインが止まり、電話もなかなか通じません。

上京を控えていた私は東京へ書類を郵送する必要があったのですが、この閉ざされた環境では期日どおり郵送できない可能性がありました。

先方にひたすら電話をかけ続け、やっと通じた電話で現状を伝えると「どうして期日を守れない可能性があるの?」と言われ、なんだか虚しく悲しい気持ちになりました。

何か寄り添った言葉を求めていたわけではないのですが、この日は現在でも忘れられない日となり、自分の中に残り続けています。

続く余震のなかでの避難生活

地震から身を守る女性

ところで、みなさんは東日本大震災発生後、余震が頻発していたことを覚えているでしょうか。

揺れが続く中での生活は、私にとっていろいろな気付きがありました。

開ける?締める?家の鍵

「もう収まったかな?」と思う度に揺れが起きるため、落ち着いて過ごすことはできず、地震がある度に屋外へ避難することを繰り返していました。

部屋で座ると揺れ、ごはんを食べると揺れ、ぼーっとしても、眠りにつこうとしても、何をしていても「揺れ」「揺れ」「揺れ」。

そのため避難生活中は、常に鍵を開けた状態にして、避難経路を確保することを優先していました。

避難生活初めは、自宅に変な人が入ってくるのではと不安で施錠しようとしたのですが、母の指示で鍵を開けた状態にしていました。

続く余震の中での生活では、身を守ることのほうが大事でした。

もし今同じ状況になっても、私は鍵を開けて過ごすことを選ぶと思います。

自宅にいるのに全然眠れない

こたつで寝る女性

また、今でも記憶に強く残っているのが「睡眠」の問題です。

こんな落ち着かない状況であっても、誰にでも必ず睡魔はやってきます。

余震が続く中で眠りにつこうとしても揺れがすぐに発生してしまい、すぐに目が覚めます。

安心して布団で眠ることなんてできず、ソファーの上やクッションのないカーペットの上で眠ることがほとんどでした。

不思議なもので、次第に揺れとの共生にも慣れてしまい、震度4の揺れでは外に出なくなりました。

point

幼少期によく家族でキャンプに行っていた事もあり、自宅には寝袋(シュラフ)の備えがありました。

ただ、この避難生活では使用した記憶がなく、代わりにダウンジャケットを着て、更に毛布をかけて睡眠をとっていました。

長めのダウンジャケットであれば寝袋のように使用することも可能です。

寝袋を使用しなかった理由は、恒常的に使用していなかったので間違いなく埃っぽいはずと判断したためです。

私はアレルギー性鼻炎なので、使用していたらきっと大変なことになっていたと思います。

(想像しただけで恐ろしい…)

アレルギーのある方は、寝袋じゃない代替案もあると更に安心です

母の絶大な安心感

人生で初めての避難生活で、私にとって母の存在はとてもとても大きなものでした。

実は母1978年の宮城県沖地震の被災者でもあり、当時の経験・知恵を借りて無事に避難生活を送ることができました。

また、避難生活中も母は普段とほぼ変わらなかったので、私の不安を助長することもありませんでした。

今思えば母自身も不安だったはずなのに、こうして指示して子どもに安心感を与えてくれた母は偉大だなと思います。

コラム執筆にあたって、母と当時のことを振り返る機会がありました。

お互いに当時のことを所々忘れている部分がありましたが「大変だった」ことは共通認識で、今では懐かしささえもあります。

私たちにとって被災経験は「辛い記憶」ではなく「生きる糧」になっていることは間違いないと思います。

被災経験から考える防災

防災グッズ

当時を振り返り、被災したからこそ言える防災に必要なものを紹介します。

心の防災も大事!「食料」と「寒暖に適応できるグッズ」

震災が起きた3月は、福島では寒い季節。

避難生活中は電気ストーブをつけ、常に毛布にくるまり生活していました。

毛布に包まれることで あたたかさ そして 安心感 が生まれました。

また、何かしら食べ物を口に入れていたことで、より気持ちを落ち着かせることができたのだと思います。

もしものときの防災グッズを考えると「あれもこれも」と思ってしまいがちですが、とにかく必要なのは「食料」の備蓄。

そして寒暖差に対応できるグッズが必要でした。

これらがあるだけで、精神的にもかなり落ち着くはずです

「インターネット」は大事なライフライン

避難中、我が家では「電気」「インターネット」が使える状態だったので、パソコンで情報収集を続けていました。

突然ですが、ちょっと想像してみてください

ある日突然自分が被災者になり、当たり前に使えたスマホが使えなくなったらどうしますか?

すぐに使用を諦めスマホを手放すでしょうか。

それとも何らかの手段でインターネットへの接続を試すでしょうか。

スマホの通信ができなくなった場合に備え、非常時に何らかの通信手段があるか今一度見直すことをオススメします。

情報化社会の現代で、「インターネット」は大事なライフラインの一つ

万が一被災した場合でも長く情報端末機器を使えるよう、モバイルバッテリーも備えておくと安心です。

毎日のニュースに目を通し、自分をアップデート

当時、私は第三者から東北の置かれた状況を理解していないような発言を受け、なんとも言えない気持ちになりました。

テレビ等で見聞きしたとしても、自身の生活に支障がなかったのであれば、リアルに感じられないというのも分からなくもありません。

それでも今後自分がいつ被災者と話す機会があるか分からないし、どの人が被災経験があるかも見ただけでは判断できません。

私は過去の経験から自分がニュースを認識していないことで、知らぬ間に人を傷つけてしまうことだけは避けたいと思いました。

当たり前かもしれませんが、日々のニュースに必ず目を通し、毎日の情報をアップデートさせるよう習慣付けしたいです。

東日本大震災を経験してみて 〜少しの知識が防災につながる〜

福島の空

この大きな地震は誰もが予想できなかった出来事でしたが、自宅での避難生活を乗り切ることができたのは、以下のことがあったからだと思います。

  • 鉄筋コンクリート造りのマンションに住んでいた
  • 水道が使えるうちに、浴槽に水を張っていた
  • 車のガソリンを入れたところだった
  • 家にカセットコンロがあった
  • 炊飯器ではなく、日常的に圧力鍋を使いお米を炊いていた
  • 近所に頼れる親戚が住んでいた
  • 自宅から近い学校に通っていた

そして母の存在、被災経験・知識が「安心」を生みました

震災から10年以上の歳月が流れ、当時の記憶が薄れているにも関わらず、未だに恐怖心だけはどこかに残っています。

ですが、上記項目が揃っていたことから、心の被害が少なかったように思います。

実際に被災地で過ごすことになってしまったら、誰しもが落ち着いてはいられないはずです。

予期せぬ災害発生に備えて少しでも落ち着けるよう、「知識」をつけたり「グッズ」を揃え防災対策をとることで、自分の大事な人を守れるように少しずつレベルアップしていきたいです。

あとで読む

この記事は役立ちましたか?

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

negi

多趣味でサブカル好き。福島県出身、東日本大震災で被災しています。今まで防災について深く考えず来ましたが、「いつもしも」編集部に来たのも何かのご縁。今後は、気軽に始められる「防災」について発信していきたいです!

-コラム

あとで読む